私は描くことが好きで、とにかくなんでも描いてきた。見て描く。その瞬間、そのものの存在を確信する。
その手ごたえが、私の生きている実感だ。
しかし、その存在はすぐに消えてしまう。どうしたら捕まえられるのか?
私はその方法を追いかけている。
私の制作は、母を描いたことから始まった。見るたびに異なる。これは時間か、それとも私の概念か。
この存在の不確かさをどうやったら描けるのか。
日常のスケッチ、偶然性の抽象、アクリル板への描画、光や影での空間化。
私はそれらの試みの中で、時間の不可逆性と自身の概念を思い知らされてきた。
そして、『存在』は自分と環境との接地点に現れる現象だと気がついた。
「鏡文字の書」は、行為の自己観察である。左利きの私に鏡文字は自然な動きだが、度々エラーが起きる。
それは、右社会に適応した身体のコンテクストだ。環境に応じた身体の意思。私はこの、自分フィルターをかけていない情報に注目した。
現在私は、街を歩き、「悲しみセンサー」が触れた場所に、消える鏡文字を書き、記録している。
「悲しみ」は『存在』が消えるときに感じる消失の痛みであり、身体観察の手掛かりだ。
私はこの文字を読めていない。しかし、書く。そして観察し、無意識下で身体が捉えた情報を集めている。
私はそれらを、省略せず、まとめず、選ばずに並置し、自身の主観があらわになるのを待っている。
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